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※経済対策は非常に難しく、専門家の間でもさまざまな意見があります。ここで述べるのはあくまで私見で、異なる意見の方がいることも承知しています。


現在、コロナウイルスの感染が世界的に広がっていて、日本もその例外ではありません。
今のところ欧米に比べるとよく抑え切れている…とは言っても、東京で急拡大のきざしが見えるなど、日本がいつ欧米のような状態になってもおかしくありません。

その被害で最も心配なのは言うまでもなく健康に関するものですが、二番目に心配されるものとしては経済への影響があるでしょう。


以前から私は、あちこちで、経済対策はG7プラス中国の8か国が、連携して巨大なインパクトを与える必要があると言っています。中国を加える理由はもちろん、政治問題とは別に中国の経済規模を考えると、連携できるのとできないのとでは大違いだからです。
今の状況では、残念ながら米中の対立のほうが目立っていて、連携できているようには見えません。

一方、日米は比較的連携できているような気がします。アメリカの巨大経済対策(日本の一般会計の総予算の2倍もぶち上げるとはさすがデカい)と、日本の対策とがタイミング的に合致できたこともあって、日経平均もいくらか持ち直しました。
とは言っても、根本的な原因であるコロナが広がるかぎり、どんな経済対策もすぐに打ち消されてしまいますが。

日本では総額30兆円以上の対策をするとか。規模はアメリカの7分の1ですが、日本としては必死の金額でしょう。ただ、金額を先に出していても、中身はこれからです。とにかく急いで総額を出して、時間のかかる詰めの作業は後からです。

経済には、実体の部分と心理的な部分があります。誰でも知っていることですが、ネットを見ていると、案外理解されていないことが多いようです。

経済はお金が回らないといけません。実際に回っているお金の部分、それが実体です。でも経済はそれだけでなく、未来の予測が、現在の状態に影響します。悪い未来が想像されるときは将来に備えて支出を減らし、そのせいで経済が停滞し、実体も悪化します。明るい未来が見えるときは気前よくお金を使うことになり、それが実体の景気も良くします。楽観や悲観という心理が、良くも悪くも実体を動かし、予測を的中させる方向に作用します。

コロナの場合は、実体も心理も両方とも大打撃を与えているので、深刻な状況にあります。

巨大な経済対策の金額をぶち上げただけで株価が持ち直すのは、心理的に好影響を与えたからです。しかし実体のない心は簡単に変わってしまうので、コロナが予想を超えてひどくなったり、経済対策の中身が期待ハズレだったりしたら、すぐに冷え込んでしまいます。

そこで対策の中身が重要になるわけですが、打撃が実体と心理の両方に激しく及んでいる以上、対策も実体と心理の両面を下支えする必要があります。


とにかく、まず緊急なのは、目の前の国民生活を守ることです。

なにしろ、コロナ抑制という最重要課題のために、旅行やイベントの自粛を求めるという、経済的にはマイナスの対策をあえて実行せざるをえません。短期間なら持ちこたえられても、長期化すれば体力の弱い会社から次々と倒産する危険があります。しかも困ったことに、確実に長期化しそうな情勢です。

「今日明日」がなければ1年後も2年後もないわけですから、目下緊急なのは、今の生活を守ることです。

国は今、給付金などの「実弾」を計画しています。最もスピーディーな対策です。ただこれも詳細が詰められていなくて、所得制限を設けるのか設けないのか、現金なのか商品券なのか、議論が分かれています。

これは景気対策なのか生活保障なのか…どっちを目的にするかによってやり方も変わるでしょう。ただ、実弾をばらまくという即効性を考えると、まずは当面の生活保障が優先の対策と思われます。

生活保障なら、富裕層にばらまいても意味がありません。また、金額的にも、生活の苦しい人にとって大きな金額でも、豊かな人にとっては相対的に小さく見えます。明日の生活も見えない人にとって10万円は当面安心出来る大きな金額ですが、年収3000万円の人が3010万円になったって大して変わりはありません。

つまり、富裕層に10万円配っても、もともと生活に困っていないうえに、消費の動機付けにもならないので景気刺激の効果も期待できないわけです。一方、生活困窮者は、生活必需品も買い控えています。場合によっては食べ物さえ「食い控え」しています。そういう人たちに渡れば、必要なものを買うようになるので、生活保障と同時に消費だっていくらか伸びるわけです。

金持ちの麻生大臣が、「富裕層に配っても貯蓄に回るだけだから所得制限を」と言っているのは的を射ています。たぶん本人が金持ちだから、「オレが10万円受け取ってもそこらへんにポイして何も変わらねえよ」(←麻生さんの声でこのセリフを想像してみるとすごくリアルな金持ちの本音になりますよ)ってのがよく分かっているんだと思います。

むしろ、「低所得者に限定したら生活費になるだけだから消費は変わらない」とか「お金のある人に配ってこそプラスアルファの消費に回る」という意見のほうが、よっぽど的外れです。低所得者に限定すれば、生活費に回るのはたしかです。しかし、生活費だからこそ、お金がなくて我慢していたものが買えるようになることで、消費が増えます。生活必需品の購入費になるから消費全体は変わらないという人は、生活に困っている人の状況を知らない人です。
そして、実弾支給というスピード感が重要な政策ですから、のんびり商品券を刷っている余裕はありません。当然、現金給付すべきです。

また、お金のある人に配ったら、プラスアルファの消費になるでしょうか?

今はコロナ対策で、お金のあるなしに関わらず、娯楽を抑え込んでいます。ネット通販なら買いやすいでしょうが、とにかく、今は娯楽の選択肢に強力な制限をかけている状態です。10万円あれば旅行にいきたいと思っている人は、10万円もらっても「今はやめておこう」になる(もらったから行こう、になると感染対策上困ります)ので、「あとで使おう」と貯蓄になってしまいます。
たとえ来年、コロナがおさまっていても、「去年の10万円で遊ぼう!」には大してなりません。プラスアルファの消費というのは、現金を受け取った時のハイテンションに乗るから消費に回るものです。一度貯蓄という形で塩漬けされたら、もはやそう簡単に消費に回ってくれません。

今は消費行動自体を抑え込んでいます。消費行動を抑えながら、消費行動を促す対策をとっても効果が相殺されて意味がありません。つまり今は、実体経済の悪化は嫌でも受け入れなければならないのです。ただ、第一に経済が悪化しても生活が破壊されないようにすること、第二に経済の悪化の幅を最小限にとどめる政策が必要です。

第一に関しては、生活保障を手厚くすることです。現金給付もその文脈を中心に考えるべきでしょう。第二については、はっきり言えば実体は絶対に悪くなる。その悪化幅を最小限に抑えるなら、「コロナが過ぎ去れば経済も戻ってくれる」という楽観論に心理を導くことです。心が楽観になれば、実体の悪化も最小限に防げるし、心が悲観に転べば実体もコロナの影響以上に悪化します。

30兆円の対策費用は、生活が維持できるという「安心感」(根本的な不安はコロナそのものを抑えるしかない)と、「コロナさえ終われば…」という「希望」で経済的パニックを防ぐことに使うべきです。もちろん、諸悪の根源であるコロナを抑えるための対策費用が何より優先ですが、こればかりは、お金をかければかけるほど治療法が早く見つかるというわけにはいきません。


また、株価対策も重要になります。

株を持たない人に株価は関係ないかといえば、そんなことはありません。株価が急落すれば企業の資金繰りが悪化して倒産やリストラや給与減になります。もちろん自営業も、受注は減るし小売りの売り上げも減ります。ですから、株価対策というのは非常に重要なわけですが、株価ほどパニックに陥りやすいものはないんですよね。一度パニックを起こすと、「売りが売りを呼ぶ」底なしになります。

アベノミクスで株価が上昇したときは、そのわりに庶民の生活は豊かになりませんでした。しかし、理不尽なようですが、株価が急落したときは庶民の生活を直撃します。企業はいつだってシッポから先に切り捨てます。


一方、景気対策で消費減税を主張する人が多数いますが、これはとんでもない誤りです。むしろ経済的に自殺行為になります。順を追って説明しましょう。

第一に、減税には準備期間が必要です。「○月○日から消費税が減ります!」と予告したら、そのとたんに猛烈な買い控え現象が起きて、実体経済の悪化が一気に加速します。増税前に駆け込み需要増が起きるのと反対の現象です。誰が減税の1~2か月前に家やら車を買いますか。安くなるのを待つに決まっています。

第二に、減税が実施されたとしても、コロナ対策で消費そのものを抑制させる効果のある強力な政策をとっている最中なのだから、消費は伸びません。もしも伸びたら、それはコロナ対策で旅行やイベントなどの娯楽制限をしているものをぶち壊すことになります。要するに、二律背反の政策を同時に行うことになり、双方とも失敗に帰して共倒れになります。強力な鎮静剤と強力な興奮剤を同時に投与するようなものです。

第三に、減税は必然的に国の税収を減らします。つまり、あらゆる対策に必要な資金がなくなることを意味します。やるなら国債の増発しかありません。第二のところでコロナ対策と景気刺激が共倒れになるうえに、財政まで苦しくなります。

第四に、減税実施後には、第一で起きた「買い控え」の反動での需要増が期待できるかもしれませんが、そうはいかない危険性も大です。なぜなら、第一段階の買い控えのマイナス効果で、減税実施まで持ちこたえられない企業の倒産・リストラ・給与減が進むからです。つまり減税が実施されたときには、国民の購買力が買い控え段階で低下してしまっているので、買い控えていた分の反動買い戻しすら期待できなくなっています。

こうしたことから、消費減税は、景気にプラス効果どころか致命傷になることすら予測されます。
消費税が下がればそのぶん値段が安くなるという単純思考で実行したら、ただでさえコロナで大打撃の経済がいよいよ崩壊に向かうだけです。崩壊しなくても、安くなるから助かるという安易な結果にはなりません。


ところで、「コロナさえ終われば」という希望が実体の悪化を抑えると言いましたが、ものすごい巨費を投じるわけですから、心理や実体の悪化のブレーキというだけでなく、このさい本当に「希望」につながる分野に投下してほしいものです。
そのへんは私は多くは語れませんが、たとえば燃料電池とか自動運転車のように、次世代の日本の強みを生み出せるような分野です。再生可能エネルギーもいいでしょう。これだけの巨費ですから、見境なくジャブジャブ投じるのではなく、今こそ成長分野を強力に援助すべきでしょう。

コロナで苦しんでいるのは、世界共通です。しかし、ここをうまく乗り切るかどうかで、「コロナ後」の勢力図が変わります。中国が近年こんなに躍進できたのも、リーマンショックを比較的うまく乗り切ったからです。リーマンショック自体は中国も含めて世界的な経済危機でしたが、うまく乗り切ったことで、「リーマン後」に躍進できました。国力というものは相対的に決まりますから、災いの影響が相対的に小さく終われば、災いが終わったあとで福に転じることも可能なわけです。


日本の、コロナとの勝負はこれからが本番です。

新型コロナ対策で、安倍総理が全国一斉休校を決めました。
休校を強制するわけではないので、自治体によっては、休校開始日をずらしたり、休校しなかったりもあるようですが、基本的には「全国一斉休校」です。

ただし、保育園は対象外。このことに疑問を持っている人がたくさんいます。
なぜそんなことになるのか、私なりに理由を考えてみました。
(※記事中では「保育園」と書きますが、正しくは「保育所」です)


ネットを見ていると、「なぜ保育園は開くのか」と、当の保育士さん方も疑問を持っている方が見受けられます。
学校は文部科学省の所管で、保育園は厚生労働省の所管。…とはいえ、タテ割り行政でも、総理大臣はどっちも含めた全体のトップだから、「総理の決断」ならその気になれば両方休みにできるはず。
子どもの集団感染を防ぐという目的なら、学校も保育園も状況は変わらないはず…です。

なぜ保育園だけ?

それは「そもそも保育園とは何か」を考えると、答えが出てきます。

保育園は「児童福祉施設」です。いやそんな種別は関係ないだろ、と思うかもしれませんが、この意味は大きい。なぜなら、保育園はもともと「保育に欠ける児童」を預かる施設だからです。
幼稚園との違いは、幼稚園は学校(義務教育じゃない)です。幼稚園は、親が幼児教育を受けさせたいときに子どもを入園させます。だから、延長はあるにせよ本来は半日保育だし、夏休みや冬休み、春休みがあります。保育に欠けていない子どもが入る学校だからです。

でも保育園は保育に欠ける子どもの施設です。「保育に欠ける」とはどういうことか…というと、基本的には、共働き家庭であったり、ひとり親家庭であったりして、親が昼間家にいることができないので、その間子どもを預けるわけです。

ですので、このコロナ問題で親が仕事を休めるようになった場合、保育に欠けなくなるわけですから、子どもを保育園に預ける必要がなくなります。でも、多くの親はそうはいきません。

もしも保育園を一斉に閉めてしまったら、赤ちゃんや幼児が朝から夕方まで独り、という事態が発生します。

また、保育園の役割には別の側面もあります。

「児童養護施設」というものがあります。これは、虐待や保護者の病気その他もろもろの事情で、子どもを育てる大人が誰もいない(あるいは不適切な)場合に、子どもがそこで暮らすための施設です。これは入所施設ですから、子どもは完全にそこで暮らしています。

児童養護施設を閉めることができないのは、分かりやすいでしょう。閉めたら、子どもは「家」をなくしてしまいます。閉められるわけがありません。

保育園はそれと違って通所施設ですから、子どもの「家」は自宅がちゃんとあります。しかし、保育園には、「児童養護施設の通所バージョン」的な使われ方もあります。

最近よく聞く言葉に「待機児童」というものがあります。保育園に入れようとしても、満員で入れずに順番待ち状態になったり、門前払いになったりする子どものことです。その子たちは、「保育に欠ける」という保育園に入る条件は満たしているのに、人数的な問題で入れない状態にあります。

保育に欠けているのに保育園に入れないのだから、深刻な事態です。だから大きな社会問題になっています。

では、保育園に入れる子と入れない子、その差はどこから来るのでしょうか。「保育に欠ける」と一言に言っても、家庭状況はさまざまですから、欠けている程度の違いがあります。誰を入れて誰を入れないかを決めているのは市町村です。市町村は、家庭状況を調査して、どれくらい保育に欠けているかを点数化して、その点数の高い順に優先順位をつけて保育園に入れています。

つまり、特に待機児童の多い地域では、「それでも保育園に入れた子」というのは、それだけ激しく切羽詰まって保育に欠けている状態といえます。

保育園の中には、「夜間保育園」というものがあります。

大体、普通の保育園は、延長保育を利用しても最大で朝の7時半から夜の7時半までとか、それくらいの時間が限度です。ところが「夜間保育園」は、夜10時以降まで子どもを預かっています。私の知っている例では午前2時まで預かります。もし、朝の7時半から夜中の2時までフルで子どもを預けていたら、限りなくそこに住んでいる状態に近くなります。

また、保育園には虐待を受けていた子も多数入っています。
児童養護施設のように、完全に保護者から切り離してそこに住み込む必要まではないものの、相当な時間は家庭から離しておかなければ安全が保てない状態にある子で、最優先レベルで保育園に入る子です。

保育園を全国一斉休園させたらどうなるでしょうか。

コロナウィルス以前に、多くの子どもが生命の危険に晒される可能性があります。
ひとつの保育園が休園するとかなら、別の保育園に分散させてフォローする方法も考えられます。でも、保育園の全国一斉休園はどう考えても不可能なのです。


今回、もうひとつ閉めないものに、学童保育があります。

保育園は、小学校入学前の子どもが対象です。では、上のような事情でどうしても保護者が昼間育てられない状況にある子は、保育園を卒園してしまったらどうなるのでしょうか。その受け皿になり得るのが学童保育です。

ただ、学童の場合は市町村が優先順位をつけて入所決定するわけではないので、受け皿となることはできても、そのまま「小学生用の保育園」というわけではありません。
保育園の代わりを完全に果たせるような小学生用の施設は無いのが現状です。

それでも、学童保育は、特に授業が早く終わる低学年の子どもを、放課後預かる場所として、保育園と共通する機能を持っています。小学校は義務教育なのでどんな家庭の子も(病気や不登校の場合はともかく)全員来る前提ですが、学童保育は需要のある子だけが来ます。その中には、保育園で優先順位の高かった子も当然含まれています。

それを考えると、学童保育を全国一斉閉鎖するのも、一部の子にはそれ自体がコロナウィルスよりも危険な状況を産んでしまいます。

単純化して言えば、一斉休校は「教育をストップする」ことであり、保育園や学童の休園は「生活をストップする」ことです。実際には休校したら教育と一緒に生活もストップしてしまうので、そのバックアップとして、学童保育はストップできないということになります。


コロナウィルスの集団感染を防ぐためには、何もかも閉めてしまうのが一番なのは当然ですが…。保育園や学童保育を全部閉めてしまうことは、それ自体が子どもの生命をおびやかす、という判断があったのでしょう。

もちろん、小中高を一斉休校させるだけでも、社会的に大きな混乱を産みます。

コロナウィルスと、それ以外の要因とを、どの程度に評価してどれくらいの処置をするのかは最終的には政治判断です。ウィルスの危険性の判断は医学的問題ですが、医学と教育と福祉とその他の問題まで含めて、どこまでの処置をとるのが最善かを判断できる「専門家」はいないので、最終的には総責任者が政治判断をするしかありません。

今回のレベルの処置が正しいのかどうかは、結果を見て検証するまでは誰にも分からないでしょう。

※あくまで私個人の意見です。人によって考え方が違うかもしれません。

間もなくWindows7のサポートが切れるので、もう多くの人はWindows8以降を使っていると思います。
とはいえ、XP以来の人気OSだったWindows7。XPのサポート終了時ほどではないでしょうが、まだ買い換えはこれから…という人も残っているでしょう。
そこで、南雲の独断による「Windows10 PC購入ガイド」です。
購入目的はいろいろあるでしょうが、ここではあくまで「メインマシンとしての購入」を前提にしてお話しします。

■デスクトップか、ノートか
まずはPCの基本形態から。設置スペースが限られているなら、ノート一択です。しかし、設置スペースが限られていても、すでにディスプレイを持っている人なら、超小型デスクトップも選択肢に入ります。

最近のデスクトップには本当にミニサイズがあって、本体の設置スペースだけを考えるなら、ノートより小さいデスクトップもあります。そんなに小さなマシンでも、性能や拡張性は十分です。すでにディスプレイを持っているなら、「これ以上のスペースがないからノート」と決めつけずに、ミニサイズのデスクトップも考えてみましょう。
ただし、いくらミニサイズと言っても「スティックPC」はメインとしてはダメです。

ノートの場合は画面のサイズが限られます。メイン用のPCでは、15.6インチが標準になります。
画面の必要サイズを考えるには、解像度との兼ね合いを避けて通れません。どれだけの解像度が必要かというと、「これから買うPC」である以上は多少は未来のことを考えなければいけませんから、1920×1080ドット(フルHD)は欲しい。今なら、それより多少低解像度でも不便はありませんが、今後のアプリは1920×1080という画面を標準として開発されるようになるでしょう。なので、それだけあるほうが望ましい。

解像度が高いと、それに見合った画面サイズが必要になります。今のノートPCの標準である15.6インチというのは、解像度が1366×768ドットだった時代の標準です。もっと古いことを言えば、解像度が1024×768ドット(XGA)だったころの画面サイズが標準で15.1インチだったのを引き継いでいます。その後、解像度ははるかに高くなったのに、画面のサイズはそのままです。

今は、昔よりも「文字のサイズ」が大きくなっているので単純比較はできませんが、使用感としても、15.6インチで1920×1080ドットは、「表示が小さすぎる」と感じます。読めるからといって油断は禁物。文字表示が小さいと、知らず知らずに目が画面に近づいてしまうので、目にもよくありません。

一定程度の距離を保っても読みやすい、ということを考えると、スペースの問題さえなければデスクトップが望ましい。でなければ、私のように17.3インチのノートを選ぶか…。15.6インチで1920×1080のノートを使っている人も大勢いますが、目のことを考えると望ましい選択とは言えません。15.6インチなら、今は不便はないので1920×1080表示ができても1600×900くらいに解像度を落としたほうがいいと思います(私は職場のPCではそうしています)。

■CPUはどれくらい必要か
私は個人的なこだわりでCPUのパワーを気にしますが、実用的にはそれほど気にする必要はありません。もちろん、何に使うか次第で、3Dゲームやら動画編集やらをするなら、Core i7が欲しいです。とはいえ、そういう使い道ならCPUよりもグラフィックボードを選ぶべきでしょう。

ネットを閲覧したりYoutubeを見たり、動画ファイルを見るだけだったり、編集も音声ファイルだけだったり、WordやExcelなど特別に負荷の大きくないアプリを使ったりする程度なら、CPUはCeleronでも特に支障はありません。でも、少し余裕をもたせてCore i3くらいあったほうが望ましいでしょう。

Windows10は、基本的にそんなにCPUパワーを必要としません。かつてWindows Vistaの時、当時のCPUでは対応できないような重さで猛批判を浴びたことから、それ以降、MicrosoftはOSが重くなりすぎないように気を遣っています。

■メモリはどれくらい必要か
1GBでも動かないことはありませんが、まず想定されていません。2GBでも動きますが、不十分です。メインとして使うなら、最低4GBは欲しいところです。望ましいレベルを言えば8GBです。

ノートPCや、デスクトップPCでも専用グラフィックボードを搭載していないマシンでは、ビデオメモリがメインメモリから割かれることになります。どれくらい割かれるかはPCが自動的に割り振りますが、解像度が高くなればなるほど、多くのビデオメモリを必要とします。

上に、将来を考えると解像度は1920×1080ドット欲しいと書きました。「4GBで十分」と言われていたWindows7の登場時は、解像度の標準が1366×768ドットでした。その時代よりも今は多くのビデオメモリを必要とするので、そのぶんメインメモリが減ってしまいます。

それを考えると、メインマシンとして使うなら最低ラインが4GBで、望ましいレベルは8GBでしょう。もちろん、16GBあれば快適ですが、ぜいたくを言えばCPUにしてもその他にしてもキリがありませんからね。

■ストレージは…?
もしもストレージにHDDを選ぶなら、大きさを気にする必要はありません。HDD搭載マシンなら、少なくとも500GBはあるでしょうし、それだけあれば大丈夫だからです。

しかしHDDは正直言ってのろいです。CPUがいくら高性能でも、メモリをどれだけ大きくしようとも、HDDが足を引っ張って、すべての動作が重くなります。「快適なマシンにはSSDが必須」です。

起動ドライブ(Cドライブ)には是非ともSSDが必要ですが、SSDの場合は大きさの問題があります。一部の廉価マシンには32GBもありますが、絶対にやめるべきです。これではWindows10の更新もままなりません。64GBあれば、Windowsの更新はどうにかなりますが、アプリをインストールしていくとすぐに不足するのが見え見えだし、データファイルはUSBメモリや外付けHDDに保存するのが前提です。

32GBや64GBのマシンは根本的にメインマシン向きではなく、どんな弊害が起きるか分かっている人があくまでサブマシンとして選ぶためのものです。

つまり最低でも128GBは必要です。128GBあれば、すぐには困らないでしょう。しかし、メインで長く使っていると、ゆくゆく容量不足に直面することが目に見えています。データならUSBメモリや外付けHDDに移動できますが、アプリは内蔵ドライブにしかインストールできません。
そこで、私は256GBを「最低ライン」に設定します。推奨は、500GB前後です。ただ、たとえば256GBのSSDとは別にもう一台のHDDなどを内蔵していれば大丈夫でしょう。

SSDは値段が高いので、容量と値段の兼ね合いに悩むことがあります。ただ、最近ではかなり安くなってきているので、大きめを用意して後悔はありません。のちのち交換するつもりなら小さいものを買っておいて、将来もっと低価格化してから交換するのもアリですが、最初からそれくらいの計画で買う人はそもそも私のアドバイスは必要ない人でしょう。

■光学ドライブ
CDとかDVDとかBDとかを使うドライブを「光学ドライブ」といいます。データの保存や、オリジナルCDやDVD(普通のプレーヤーで音楽を聴いたり普通のテレビでビデオを見たり)の作成にも使いますが、むしろ一番出番の多いケースは、アプリのインストールでしょう。

オリジナルCDやDVDを作成するなら必要ですが、そうでなければ、本体には無くても困りません。データ保存ならUSBメモリや外付けHDDのほうがはるかに使いやすいし、アプリのインストールも、今ではUSBメモリから可能になっているからです。

ただ、全てのアプリがUSBやネットワークからインストールできるわけではないので、必要になる場面も高確率で出てきます。ドライブの種類は、どうしてもBDが必要なケースはオリジナルBDを作るかBDのビデオを視聴する場合しかないので、BDなしの「DVDマルチドライブ」があれば十分です。
書き込み機能のない「DVD-ROMドライブ」でも問題ありませんが、書き込み機能があっても無くても今では価格の差がないので、同じ値段なら書き込めないDVD-ROMを選ぶ理由がありません。

使う場面が少ないので、PC本体に内蔵している必要はありませんが、外付けでいいので用意すべきでしょう。

■USB
今や必須なのがUSBです。USBのバージョンについては、今の時代、よっぽどバカでなければUSB3.0以上がついているので、気にする必要はありません。でも一応、もしもUSB2.0しかないという事態にならないよう、確認はすべきです。
ちなみにUSB2.0でも実は大して困らなかったりしますが、USB3.0と理論値で10倍の速度差がありますし、3.0が無いからといって安いわけでもないので、3.0以上があることを一応確認しておきましょう。

バージョンの話をすると、USB3.0と、USB3.1(Gen1)の性能は同じです。USB3.1(Gen2)は理論値でその2倍の速度です。よく、誇らしげに「USB3.1搭載!」とか書いてある場合がありますが、その多くはむしろGen1で、3.0と同じですから騙されないようにしましょう。

もっとも、3.0でも十分です。ようは、3.1だから3.0より上だと勘違いさせようとしている宣伝が多いということです。

次にタイプの話をしますと、主に「タイプA」と「タイプC」があります(Bはどこに消えたのかというと、Bはパソコン本体側についてることが少ないので省略します)。チラシなどの説明に何も書いていなければまず「タイプA」でしょう。USBと聞いて最初に思い浮かぶ、普通のUSBメモリなどの挿し口が、タイプAです。
タイプCというのは、より小型かつ多機能な発展型です。タイプBのミニとか、iPhoneのLightningと同じような大きさです。機能については、搭載しているPCによってさまざまですが、タイプAよりも大容量の給電ができることがメリットのひとつです。

タイプCは、将来を考えるとあったほうがいいですが、なくても今買うPCの範囲なら困らないと思います。

USBはいくつ必要かという「数」の問題があります。数が足りなければUSBハブで増やせばいいとも言えますが、最初からついている数を基本に考えましょう。デスクトップPCで不足することは考えづらいですが、ノートPCの場合は考えどころです。

マウスをUSBで接続するなら、それも含めて最低3つ、できれば4つ欲しいです。マウスをBluetoothで接続するならそのぶん空きますが、Bluetoothのマウスは割高だし、USBの無線マウスのほうが使いやすいです。1つのマウスを複数のPCで共有するならBluetoothですが、そのつもりがなければUSBがラクです。

やはりメインPCならUSBは最低でも3つ、できれば4つでしょう。それ以上必要なら、ハブで増やせばいいですし。

■その他の拡張性
今ではほとんどの周辺機器がUSBで使えるので、その他は何もなくても困りません。ただ、あったほうが便利なのがSDカードスロットです。無ければ外付け品を別に買うことになるので、最初からあるほうがベター。

デスクトップPCの場合、外付けディスプレイと接続しなければなりませんが、古いディスプレイを使う場合には要注意です。新しければ、HDMIで接続するのが一番でしょう。ただ古いディスプレイにはアナログのD-Sub15ピン接続しかできなかったり、デジタルでもDVIしか対応していなかったりします。

その場合、パソコンがそれに対応している必要があります。HDMI出力と、ディスプレイ側がDVI入力なら、デジタル接続同士なので変換ケーブルでどうにかなると思いますが、ディスプレイ側がアナログだけでPCがデジタルだけの場合はかなり面倒くさくなります。

はっきり言えば、ディスプレイ接続云々でPCを選ぶべきではないと思います。ディスプレイがアナログでしか接続できないなら、そのディスプレイを買い換えるほうが普通だと思います。

最近では、USBタイプCでディスプレイに接続できる場合があります。ただ、ディスプレイ側がUSBタイプCに対応していて、PC本体側にUSBタイプCが装備されていても、そのPC側のタイプCコネクタが映像出力に対応していないケースも多いので、USBタイプCを使う場合は要確認です。

要するに、デスクトップPCとディスプレイの接続は、HDMIにしておけば間違いないし、今はそれが主流なのでそれにしておくのが無難です。

その他、無線LANはインターネットに必要なので大抵付いていると思いますが、有線LAN(RJ-45)も「あったほうがいい」です。無線はときどき接続が不安定になることがあるので、有線接続もできるほうがベターです。ただ、有線LANが内蔵されていなくても、必要ならUSBで外付け可能なので、必須とは言いません。
今はUSBさえあればどうにかなるという便利な時代になりました。その代わり、光学ドライブやSDカードスロット、マウスに有線LANと、あれもこれもUSBで片付けようとすると、当然USBの数が必要になります。

■総括
性能も機能も、上を見ればキリがありません。上を見れば当然高くなります。そこで最後に、メインマシンとしての最低ラインと、最低ではないが欲しい推奨ラインとをまとめます。

画面の解像度
最低1600×900 推奨1920×1050

画面のサイズ
最低15.6インチ 推奨17.3インチ以上

CPU
最低 Celeron 推奨 Core i3以上※(下記参照)

メモリ
最低4GB 推奨8GB

ストレージ 
CドライブのHDDは対象外
SSD 最低256GB 推奨500GB前後、または256GB+Dドライブ用のHDD

光学ドライブ
最低 無し(ただし外付けは必要) 推奨 DVDマルチ

USBコネクタ
USB2.0しか無いのは対象外、最低1つはUSB3.0以上
最低3つ 推奨4つ タイプCはあったほうがよいがあまり気にしなくてもいい

その他の拡張性
内蔵または外付けでSDカードスロット必須
無線LAN必須、内蔵または外付けで有線LAN推奨
Bluetoothはなくてもいい
デスクトップPCの場合、HDMI出力が無いことは考えられないが、ディスプレイ側にHDMI入力ができること

※CPUのタイプにはいろいろあるが、メインPCとして使うならCore i3以上推奨。
ただしCPUの型番の末尾が「U」で終わるタイプ(Core i3 ○○○○Uなど)は省電力優先で性能がかなり低い。バッテリーでなくコンセントにつないで使う前提なら、なるべく避けたほうがいい。とはいえノートPCの大半がこのタイプではある。

南雲のやさしい(?)ニュース解説。

私も、ここまで土壇場になってGSOMIA維持になるとは思いませんでした。一体、日韓の背景に何があったのでしょうか。


そもそもGSOMIAとは

GSOMIAは、相互に機密情報を提供し合うときに、それを第三国に漏らさないという協定です。日韓の場合は北朝鮮に関する情報が主になりますが、たとえば日本の偵察衛星がキャッチした情報を韓国に渡すとして、それを韓国がまた別の国に渡したりすると日本が困ります。なので、そういった情報を漏らさないという協定です。
「漏らさない」という協定であって、日本が韓国に(または韓国が日本に)情報を渡す、という協定ではないので、実際にどんな情報を渡すかどうかは別問題。しかし、相手に渡してもそれ以上に漏れないという約束があると、安心して相手国に情報提供できるという仕組みです。


韓国はなぜGSOMIAをやめると言い出したのか

韓国の立場では、日本が通商問題で、韓国を「ホワイト国」から除外したことが理由でした。
文在寅大統領の就任後、日韓関係が悪化しているのは誰の目にも明らかです。もともと文在寅は、「北朝鮮と和解して一緒に日本をやっつけよう」という思想の持ち主ですから、「この人が大統領になると日韓関係が悪化する」ことは、初めから分かっていました。しかし、たぶん多くの人の予想以上に悪化しました。

まずは、朴槿恵前大統領と安倍首相との間で結ばれた「慰安婦合意」の事実上の破棄です。戦時中の従軍慰安婦の問題について、日本が10億円を拠出して財団をつくり、元慰安婦たちに見舞金として渡すことで、慰安婦問題は完全に解決したものとして二度と問題に取り上げない、という約束でした。ところが文大統領はこれを実質的に破棄し、10億円を受け取ったにもかかわらず、今でも慰安婦問題を取り上げ続けています。

次に、自衛隊のP-1哨戒機に対する「レーダー照射問題」です。韓国の駆逐艦が、自衛隊機に対していわゆる「ロックオン」をした事件で、これは撃墜寸前の行為でした。日韓は軍事的に「準同盟国」ですから、撃墜寸前の攻撃的行為をした韓国に対して、日本が抗議しました。しかし韓国は「やっていない」と否定したうえ、「自衛隊機が異常接近し、威嚇した」と、逆にありもしないことを言い出しました。この件で日本側の言い分が正しかったことは、防衛省が公表したビデオではっきりしています。

そして、「徴用工判決」です。韓国は1910年~1945年の間、日本が統治していました。その間、特に第二次大戦で日本が苦戦して労働力が不足していた時期に、朝鮮半島の住民(韓国人や朝鮮人)を労働力として使いました。それが強制的であったか応募であったかはともかく、戦後の日本は、その人たちに賠償する必要がありました。
1965年、日本と韓国が国交を回復するときに、この問題を解決する必要がありました。日本は、当時の労働者に対して賠償金を支払うと言いましたが、韓国の朴正煕大統領(朴槿恵大統領の父親)が、「そのお金は韓国政府が一括して受け取り、韓国政府からそれぞれの労働者に渡す」と回答しました。日本は別に反対する理由がないので一括して韓国政府に賠償金を渡しましたが、朴正煕大統領は、それを労働者に渡さずに、道路や橋の建設など、インフラ投資に使ってしまいました。韓国はこのインフラ投資が活きて、「漢江の奇跡」と呼ばれる大発展を遂げ、現在の豊かな韓国の基礎になりました。

しかし、肝心の労働者(いわゆる「元徴用工」)は、受け取るべきお金を受け取っていません。そこで彼らが、かつて働いていた日本企業に「賠償金を支払え」と言い出しました。日本は、「それはすでに韓国政府に支払ってある」という立場です。韓国の国民に手渡すべきお金を大統領が勝手に別の目的に使い込んだわけですから、韓国の国内問題です。しかし、韓国の大法院(最高裁判所)が、日本企業に支払い命令をする判決を下しました。

日本企業が判決に従わなかったので、韓国大法院が、韓国国内にある日本企業の資産を差し押さえました。

その直後に、日本は通商問題で、韓国を「ホワイト国(信頼できる国)」から除外しました。韓国はこれを日本による国際法違反の経済報復だととらえ、WTO(世界貿易機関)に訴える手続きに入りました。日本は国際法違反ではないと主張し、その根拠として、WTOルールの例外にあたる「安全保障に関する事案だ」と主張します。つまり、日本が韓国への輸出を厳格化する品目は安全保障上重要なものであり、かつて韓国に輸出したまま韓国で使われずに行方不明になっているものが多い、それがどこに流れたか分からないから、輸出を厳格化したのだと説明します。

日本が韓国を、「安全保障で信頼できないから輸出を厳格化した」と言ったので、韓国は「それならこちらも日本を安全保障で信頼できないから、安全保障の協定であるGSOMIAを終わらせる」と通告したわけです。

GSOMIA終了は、「日本が韓国を信用できないと言うなら韓国も日本を信用できない」という理由で出てきたものですが、その背景には、慰安婦問題やレーダー照射問題などで積もり積もった相互不信がありました。


文在寅の不可解な行動

直接的な原因ではないにせよ、問題の背景に慰安婦問題やレーダー照射問題があることは間違いありません。こうした問題で、文在寅大統領の行動は極めて不可解です。なぜ、そんな無茶を繰り返したのでしょうか。

それはまず、文在寅が、「アンチ朴槿恵」で生まれた大統領ということに起因します。韓国には日本に対する根強い不信感があります。慰安婦合意は、朴槿恵大統領がそれなりに現実的な利益を考慮し、日本とのもめごとを収束させるために結びました。しかし韓国の国民には必ずしも支持されていませんでした。その後、朴槿恵大統領は不祥事で辞任に追い込まれますが、打倒・朴槿恵の先頭に立っていたのが文在寅でした。
辞任した時、韓国国民に猛烈に嫌われていた朴槿恵を、見事引きずり下ろしたので、文在寅の人気が急上昇しました。ですから文在寅の政策は、何から何まで「朴槿恵の否定」にあります。慰安婦合意の否定も、そのひとつです。しかも、文在寅は反日強硬派の中心人物でもあり、日本に対して妥協はありえない人物です。

また、文在寅は強烈な北朝鮮擁護者でもあります。北朝鮮は社会主義国として誕生しながら、すでに社会主義とは全く関係のない政治体制になっています。北朝鮮ではこの特殊な体制を「主体思想」というオリジナルの思想で根拠づけていますが、文在寅は、「北朝鮮政権以上の主体思想の信奉者」と言われることさえあります。

多少の語弊と言い過ぎを覚悟で言ってしまえば、文在寅の理想は、「南北統一し、韓国の経済力と北朝鮮の核兵器とを合体させて強力な国家を作り、アメリカと縁を切って中国と友好を結び、日本に過去の恨みを晴らすこと」という感じです。

ですから、国連の安保理決議で経済制裁を受けている北朝鮮を助け、北朝鮮への制裁を解除しようとするうえに、制裁逃れの密輸の手助けさえしている(かもしれません)。密輸の手助けはあくまで疑惑レベルです。しかし、海上自衛隊のP-1哨戒機へのレーダー照射時も、韓国の駆逐艦の行動は非常に不可解で、単に海難救助活動とは思えないところがあります。あるいは、強力な情報探知能力のあるP-1哨戒機に見られたら困る行動をしていたので、追い払うためにロックオンしたという説もあります。

文在寅は国内経済で、最低賃金の爆上げなどで大失敗し、今や韓国経済は危機に瀕しています。その批判をそらすために、韓国人がヒートアップしやすい反日感情を利用した側面も大いにあるでしょう。


GSOMIAがなくなると何が困るか

GSOMIAは、最初に書いたとおり、日韓間で機密情報を融通しあう時の協定です。これがなければ、日韓ともに安心して機密情報を交換することができなくなり、情報がストップしてしまいます。
しかし、日本は多くの情報をアメリカから仕入れているため、韓国からの情報がなくてもあまり困りません。韓国のほうも似たようなもので、多くはアメリカから情報を仕入れています。ですから、日韓間の情報が途切れても、日韓ともに影響は限定的です。
また、日本の情報はアメリカに提供され、アメリカから韓国に提供されます。韓国の情報もアメリカに提供され、アメリカから日本に提供されます。だから、間にアメリカをはさんだ形での情報交換は続きます。GSOMIAがなくなったとしても、日韓ともに多くの情報はアメリカから入手しているので、「一部の情報の入手スピードが遅れる」という感じです。北朝鮮のミサイル情報はスピードが大事なので影響がないと言えば嘘になりますが、お互いに、情報面で致命的な打撃を受けることはありません。


大問題になった理由

GSOMIAがなくなっても、日韓ともに情報面で致命的な打撃はありません。むしろ、最も困るのはアメリカなのです。
アメリカの情報収集能力はズバ抜けて高いうえ、日韓GSOMIAがなくなっても、アメリカが日韓両国からの情報を受け取ることは何も変わりません。しかし、GSOMIAは「事実上の日米韓三国同盟」の象徴という意味が大きいのです。

日米、米韓はそれぞれ同盟国ですが、日韓は同盟関係にありません。しかし、準同盟的な関係にはあります。日韓も事実上の同盟であることをはっきりさせる「看板」の役割を果たすのがGSOMIAです。「日米韓三国同盟」の親玉は言うまでもなくアメリカで、アメリカが東アジア地域の安全保障のボスであることを示す意味合いが、GSOMIAにはあります。GSOMIAは直接的には、北朝鮮情報を主に扱う日韓間の情報協定ですが、何より大きな意味は、「東アジア世界のボスはアメリカであるぞ!」という主張にあるのです。
そんな主張をしなければならない理由は、中国がアジアの盟主になろうとしているからです。「盟主は中国ではなくアメリカだ」という主張がGSOMIAに込められています。

それが破棄されるというのは、アメリカの面目が丸つぶれになるということです。ひいては、今、アメリカが必死になっている中国との覇権争いで、アメリカの「パワー」が世界に通用しなくなり、中国に負けるきっかけになりかねません。だからアメリカは、日本以上に必死になって韓国を説得しました。

韓国は、アメリカが出てくることを予想しなかったわけではありません。むしろ、GSOMIAをやめると言えば、困ったアメリカが日本を説得してくれるだろうと見込んで、アメリカを巻き込むために打った手段でした。ところが意に反してアメリカは、「歴史問題やら通商問題は日韓で勝手に話をつけろ、でもアメリカを巻き込むな」と一方的に韓国を説得しました。この説得が、説得というよりも恫喝に近いレベルで激しかったので、さすがの文在寅も引っ込む以外にどうにもならなくなりました。


今後はどうなるか

もしもGSOMIAがなくなって、東アジアでアメリカの影響力が弱まれば、それは日本にとっても損失になります。やはり日本の立場でも、GSOMIAは維持されるべきです。
文在寅大統領は、GSOMIAを終了すると言い、それは韓国の国民にも支持されました。アメリカの猛烈な説得を受けて、できれば引っ込めたいと思ったでしょうが、今さら引っ込められない状況に追いつめられていました。引っ込めるとしたら、それなりに「日本から譲歩を勝ち取った」と言える理由、というより言い訳が必要でした。

今回、韓国はGSOMIA維持を決めるにあたって、交換条件として、日本と通商問題について協議することで合意したという話です。「日本がホワイト国からの除外を撤回すれば、韓国もGSOMIA終了を撤回できる」と言っていたので、これは文在寅に撤回の言い訳を日本が与えた形になります。

GSOMIAがなくなればアメリカが困り、アメリカが困ればひいては日本も困るので、日本としても文在寅が引っ込みやすい環境を作る必要があったのでしょう。

しかし、日韓はあまりにも立場が違いすぎて、協議しても議論が平行線になることは目に見えています。結局、何も決まらないまま時間だけが過ぎることになるでしょう。何も決まらなければ、日本は韓国をホワイト国から除外したままですから、全く譲歩したことにならないし、譲歩する必要もありません。どうせ決着しない話し合いですから、協議を始めると言っても、事実上無条件でGSOMIAが維持されたのと同じです。

ところで、通商問題での協議開始で合意したからということで、韓国はホワイト国問題で日本をWTOに提訴することも取り下げました。
これまで日本が協議に応じない姿勢だったので、韓国が対抗措置としてWTO提訴に動いたわけですが、日本が協議に応じたので韓国もWTO提訴を取り下げたというわけです。

自然な成り行きに見えますが、私は「日本が(いつ終わるとも知れない)協議に応じる代わりに韓国が提訴を取り下げる」という条件設定も、アメリカの決めたシナリオのように思えます。そうならば、これは大きな変化ではないかと思っています。

今回、アメリカが韓国に猛烈な圧力をかけました。韓国は日本に屈したわけではなく、アメリカに屈したのです。それならWTO提訴取り下げも、アメリカからの圧力によるものでしょう。WTOで日本が勝つ保証はありません。エンドレス協議をする代わりに提訴を取り下げるのは、日本が韓国をホワイト国に戻すかどうかは日本の一存であり、国際機関の干渉は受けないという状況になります。

アメリカはずっと、「歴史問題と通商問題は日韓で話し合え、でも安保は別」という態度でした。そのアメリカが通商問題に首を突っ込んだとすれば、これは大きな変化です。
高位高官を次々と韓国に送り込んで、露骨な圧力をかけたのは、単に「GSOMIA一点」ではなかった可能性がうかがえます。思うに、アメリカは韓国に決断を迫ったのではないでしょうか。

アメリカを選ぶのか、中国を選ぶのか、ここではっきりさせろ、と。

韓国は文在寅政権になってから露骨に中国寄りになり、アメリカに対して非協力的になっています。北朝鮮擁護にせよ、THAAD問題にせよ、インド太平洋戦略にせよ、アメリカよりも中国の意向を尊重しています。今回のGSOMIAにしても、やめるというのは中国からの要求を飲んだ結果でした。

アメリカと中国が世界を巻き込んで勢力争いしている時に、アメリカ陣営のはずの韓国が、アメリカを離れて中国に寄り始めていました。そんな韓国に対して、アメリカは相当激しい脅しをし、韓国はそれに屈せざるを得なかったのだと思います。

といっても、文在寅の立場で、急に日本と関係改善したら、一気に支持層を失います。韓国の大統領は、やめたあとの末路が悲惨です。特に、文在寅の「師匠」である盧武鉉は、自殺に追い込まれています。自分の生命(日本の政治家なら政治生命ですが、韓国では正真正銘の生命です)にかけても、支持層を裏切るような形で掌を返すことはできません。日本と関係改善することはできません。といって、アメリカを怒らせるような「日米韓の枠組み」への破壊行為もできません。

文在寅に残された道があるとすれば、韓国経済の立て直しです。そして、反日を続ければ続けるほど、韓国経済の復活は遠のきます。

今後の文在寅は、外交面では死に体となり、国内経済の問題に注力していくのではないでしょうか。歴代大統領は、支持率が落ちると反日に活路を求めてきました。しかし文在寅は、反日が過剰で追いつめられたので、今後は多少おとなしくなることに期待しています。

昔、私が高校生だったころ、現代社会の先生が授業でこんなことを教えていました。

「資本主義では、持つ者と持たざる者の格差が開く一方で、貧困層が増えた。そこで人類は共産主義を作り出した。共産主義は、人間社会の最終到達点で、人類の叡智でつくられた平等な社会です」

公立高校の教員が授業でこんなに露骨な思想教育をやっていたわけですから、昔の教員はなんでもアリだったのかなと思いますが、現代の日本ならこんな考え方は授業でなくてもほとんど受け入れられないでしょう。

価値観は時代によって変化します。
最も劇的に変化したのが、1945年の敗戦の前後でしょう。国家や天皇陛下のためよりも自分自身のために生きるという人は、戦前戦中では受け入れられませんでしたが、戦後はそれが普通になりました。かつての「非国民」が「普通の人」になり、かつての「模範的な臣民」が戦後では「極右思想」と評されるようになりました。

この例は、政治がらみであくまで極端に変化した例ですが、価値観が時代によって変化することそれ自体は、ごく自然なことでしょう。
戦後、自由な思想が許されるようになってからも、価値観は大きく変化しています。

ほんの数十年前までは、家族で働くのは夫で、家事と育児をするのは妻が標準的でした。男性は外、女性は内。その「当たり前」から外れる家は、とやかく言われることも珍しくありませんでした。共働きという、現代では普通にやっていることをすると、昔は「奥さんまで働いてるなんて、あそこはよっぽどお金に困ってるのかね」なんて噂が流れたものです。逆に、夫が稼がずに「専業主夫」をしてたりすると、「それでも男か、情けない!」と叱られたものでした。

そんな固定観念が薄れ、今では多様な家族が受け入れられています。

家族のあり方は、現代のほうが多様性が尊重されています。でも、現代が生きやすい社会になったかというと、必ずしもそうではないように思います。


学校のなかで、ひとクラス数十人の子どもたちがいたら、いろんなタイプの子どもがいます。

「落ち着きのない子」は、昔も今もいます。ジッと授業を聞くことができません。いわゆるADHDの子ですが、昔はADHDという障害を誰も知らなかったので、その子自身の身勝手とされて、先生に叱られていました。
それがADHDという発達障害であってその子自身の「せい」じゃない、ということが知られるようになって、無闇に叱っても状況は良くならず、その子に適した接し方があることを、先生方も学ぶようになりました。こうしたことは、良い方向の変化だと思います。

しかし、そうとは限らない例もあります。

元気な子もいる一方で、おとなしい子もいます。昔も今も、「元気な子」は望ましい子どもの姿ですが、教室の隅で本を読んでいたり絵を描いていたりする子もいます。内気な子、非社交的な子も、奨励はされなくとも、案外それはそれで「そういう奴」として受け入れられていました。描いている絵が上手だったりすると、非社交的でもそれなりに人気があったりします。

私が気になるのは、今ではそういう子に簡単にASD(自閉症スペクトラム症候群)という診断が下されてしまうことです。

障害名や病名をつけることで、その子の持つ性質を正しく理解できればそれは良いことです。「もっと○○しなさい!」と本人の負担にしかならない叱責をするのではなく、特性を理解することで、本人の負担が軽くなり、より適切な方法で長所を伸ばしていくことができるようになればいいのですが…。
そして、診断がそのために使われるなら、歓迎すべきことですが。

現実には、ADHDやASDという新たな知見が、ひとり歩きしてしまうこともあります。

場合によって、少なからず、こうした言葉が「レッテル」として使われてしまいます。

たとえば、ASDの中でもとくに知名度の高い障害に、アスペルガー症候群があります。知的には障害がありませんが、相手の気持ちを推し量ったり、あるいは言外の意味や文脈を感じ取ったりすることが苦手で、ひとつのことへのこだわりが強い傾向にあるなどの特徴があります。

身体的な病気や障害にしても、精神的な病気や障害にしても、その人の状態を正しく理解することによって、病気や障害による苦痛や不便さを軽減し、出来ることや得意な分野で活躍できるよう計らうことが本来の「診断」の目的のはずです。しかし、現実では診断がレッテルとなり、かえって疎外されたり差別を受ける原因になることも少なくありません。

さらには、医師の診断の有無とは関係なく、「気に入らない相手」に適当な障害名をレッテルとして貼り付けることで、いじめの道具に使われる場合もあります。
アスペルガー症候群は、略して「アスペ」と言われ、差別用語としてすら機能してしまっています。そして、その対象は、実際に診断を受けているかどうかにかかわらず、とにかく「自分の思いを理解してくれない人」、「自分に共感してくれない人」、「自分の思い通りに動いてくれない人」に対して一方的にレッテルとして使われることがあります。


さらに怖いのは、評価する人間の個人的な価値観にそぐわない相手に対して、「障害名」を利用することです。そして、その「評価する人間」が、社会的に地位があって、評価がその子の将来に影響力を持っている場合です。

私が直接知っている例では、こんなことがありました。

ある小学生の女の子が、昆虫に興味を持っていました。ちょっとした草むらなどに虫がいると、すぐに興味を持って近づき、じっと観察します。
それを見て、「先生」と呼ばれる立場の人(学校教員ではありませんが)が、こんなことを言いました。

「○○ちゃんは、女の子なのに、こんなに気持ちの悪い虫が好きなんて、何かの障害があるんじゃないの?」

私はものすごく怖いことだと感じました。

まず、「昆虫が気持ち悪い」というのは、その先生の個人的な感性です。その先生は女性でした。たしかに、女性は男性に比べると、昆虫を気持ち悪がったり嫌ったりする傾向が強いように思われます。その先生が昆虫を「気持ち悪い」と感じることは、ごく自然な反応でしょう。しかし、「昆虫は気持ち悪いものだ」という感性を絶対的なものとして他人に押しつけることに問題があります。

また、「女の子なのに」という部分も引っかかります。昆虫に興味を持つ子どもは、現実に女の子よりも男の子に多いだろうと思います。でも、男の子が興味を持つのはいいけど女の子が興味を持ってはならない、という「こうあるべき」論に飛躍するところに問題があります。

そして、結論として「何かの障害があるんじゃないか」というところ。女の子が昆虫に興味を持ったら障害児という、自分の感性に合わない子どもにレッテルを安易に貼ろうとしています。

最も怖いのは、こういう評価をした人に一定の権力があり、その子どもの将来に影響力をもつことです。

別のケースでは、ある子どもが「親友」と呼ぶ特定の子といつも遊んでいて、ほかの子とあまり遊ばないのを見て、ASDの可能性を疑った人もいます。その人(先生)は、「みんなと平等にひとしく仲良くすべきだ」という価値観に基づいて評価しています。たしかに、まわりの人全員と仲良くできることが理想ですが、その先生本人を含めて「周囲の全員とひとしく仲がいい」人なんて実際にいるでしょうか?
気の合う相手、合わない相手、いろいろいるほうがよっぽど自然でしょう。

さらに別のケースでは、食事をいわゆる「三角食べ」せずに、ひとつのおかずを食べ終わってから次のおかずを食べ始める習慣の子を見て、自閉性障害の可能性と評価した人もいます。ひとつのおかずを食べ始めたらそれに「こだわる」と見て疑ったようです。栄養学的なことはわかりませんが、これなどは単に生活習慣のひとつでしょう。
むしろ公式な食事の場面では、そもそも一品ずつしか出てきません。全種類のおかずが同時に並べられていて、かわりばんこに口に入れるというのは、フォーマルな食事のマナーとしては想定されていない、やろうとしても不可能です。

医学的な知見や医師の診断とかかわりなく、自分自身の感性や価値観、生活習慣と異なる相手を「障害者(児)」として、治療するとか、下手をすると矯正するといった発想で接すること。そして、そうした被害にあうことを恐れ、評価する立場の人間の価値観に合った「型」にはめられる子。

学校の先生と親とでは、感性も価値観も別々ですから、子どもは優等生であろうとすればするほど、その場その場で異なる人格を使い分けなければならなくなります。もちろんそれは大きな負担になるはずです。

これまで知られていなかった障害が世間に知れ渡るようになって、本来の診断目的とはむしろ反対に「個性を否定して型にはめる圧力」として中途半端な知識が利用されていくことに、私は恐れを抱いています。


ちなみに私は幼稚園のころにこんなエピソードがあります。

外遊びの時間が終わって、みんなが部屋の中に入ったとき、先生が確認をしてみたら私がいない。びっくりして探してみたら、独りで外に残ってブランコに乗っていたそうです。
先生が「どうしたの、もう中に入りなさい」と言うと、私はこんな理由を話したそうです。

「僕はどうしてもブランコに乗りたかったのに、ずっと順番を待っていたら、お外で遊ぶ時間が終わってしまった。だから、今乗ってる」

これ、気持ちはわかってもらえると思います。似たような場面に出くわした経験は誰でもあるでしょう。でも、気持ちは気持ちとして、外遊びの時間が終わってしまったからには、先生は「それでも、中に入りなさい」という指導になるでしょうね。実際先生はそういう指導をして、私はしぶしぶブランコをやめたそうです。

私としては、小さい子どもの行動として何気ない一場面だと思うのですが、今の教育・福祉の現場を見ていたら、ブランコに「執着」して「集団行動から外れた」この行動ひとつで、「障害の疑い」と記録される「リスク」を感じます。

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