昔、私が高校生だったころ、現代社会の先生が授業でこんなことを教えていました。

「資本主義では、持つ者と持たざる者の格差が開く一方で、貧困層が増えた。そこで人類は共産主義を作り出した。共産主義は、人間社会の最終到達点で、人類の叡智でつくられた平等な社会です」

公立高校の教員が授業でこんなに露骨な思想教育をやっていたわけですから、昔の教員はなんでもアリだったのかなと思いますが、現代の日本ならこんな考え方は授業でなくてもほとんど受け入れられないでしょう。

価値観は時代によって変化します。
最も劇的に変化したのが、1945年の敗戦の前後でしょう。国家や天皇陛下のためよりも自分自身のために生きるという人は、戦前戦中では受け入れられませんでしたが、戦後はそれが普通になりました。かつての「非国民」が「普通の人」になり、かつての「模範的な臣民」が戦後では「極右思想」と評されるようになりました。

この例は、政治がらみであくまで極端に変化した例ですが、価値観が時代によって変化することそれ自体は、ごく自然なことでしょう。
戦後、自由な思想が許されるようになってからも、価値観は大きく変化しています。

ほんの数十年前までは、家族で働くのは夫で、家事と育児をするのは妻が標準的でした。男性は外、女性は内。その「当たり前」から外れる家は、とやかく言われることも珍しくありませんでした。共働きという、現代では普通にやっていることをすると、昔は「奥さんまで働いてるなんて、あそこはよっぽどお金に困ってるのかね」なんて噂が流れたものです。逆に、夫が稼がずに「専業主夫」をしてたりすると、「それでも男か、情けない!」と叱られたものでした。

そんな固定観念が薄れ、今では多様な家族が受け入れられています。

家族のあり方は、現代のほうが多様性が尊重されています。でも、現代が生きやすい社会になったかというと、必ずしもそうではないように思います。


学校のなかで、ひとクラス数十人の子どもたちがいたら、いろんなタイプの子どもがいます。

「落ち着きのない子」は、昔も今もいます。ジッと授業を聞くことができません。いわゆるADHDの子ですが、昔はADHDという障害を誰も知らなかったので、その子自身の身勝手とされて、先生に叱られていました。
それがADHDという発達障害であってその子自身の「せい」じゃない、ということが知られるようになって、無闇に叱っても状況は良くならず、その子に適した接し方があることを、先生方も学ぶようになりました。こうしたことは、良い方向の変化だと思います。

しかし、そうとは限らない例もあります。

元気な子もいる一方で、おとなしい子もいます。昔も今も、「元気な子」は望ましい子どもの姿ですが、教室の隅で本を読んでいたり絵を描いていたりする子もいます。内気な子、非社交的な子も、奨励はされなくとも、案外それはそれで「そういう奴」として受け入れられていました。描いている絵が上手だったりすると、非社交的でもそれなりに人気があったりします。

私が気になるのは、今ではそういう子に簡単にASD(自閉症スペクトラム症候群)という診断が下されてしまうことです。

障害名や病名をつけることで、その子の持つ性質を正しく理解できればそれは良いことです。「もっと○○しなさい!」と本人の負担にしかならない叱責をするのではなく、特性を理解することで、本人の負担が軽くなり、より適切な方法で長所を伸ばしていくことができるようになればいいのですが…。
そして、診断がそのために使われるなら、歓迎すべきことですが。

現実には、ADHDやASDという新たな知見が、ひとり歩きしてしまうこともあります。

場合によって、少なからず、こうした言葉が「レッテル」として使われてしまいます。

たとえば、ASDの中でもとくに知名度の高い障害に、アスペルガー症候群があります。知的には障害がありませんが、相手の気持ちを推し量ったり、あるいは言外の意味や文脈を感じ取ったりすることが苦手で、ひとつのことへのこだわりが強い傾向にあるなどの特徴があります。

身体的な病気や障害にしても、精神的な病気や障害にしても、その人の状態を正しく理解することによって、病気や障害による苦痛や不便さを軽減し、出来ることや得意な分野で活躍できるよう計らうことが本来の「診断」の目的のはずです。しかし、現実では診断がレッテルとなり、かえって疎外されたり差別を受ける原因になることも少なくありません。

さらには、医師の診断の有無とは関係なく、「気に入らない相手」に適当な障害名をレッテルとして貼り付けることで、いじめの道具に使われる場合もあります。
アスペルガー症候群は、略して「アスペ」と言われ、差別用語としてすら機能してしまっています。そして、その対象は、実際に診断を受けているかどうかにかかわらず、とにかく「自分の思いを理解してくれない人」、「自分に共感してくれない人」、「自分の思い通りに動いてくれない人」に対して一方的にレッテルとして使われることがあります。


さらに怖いのは、評価する人間の個人的な価値観にそぐわない相手に対して、「障害名」を利用することです。そして、その「評価する人間」が、社会的に地位があって、評価がその子の将来に影響力を持っている場合です。

私が直接知っている例では、こんなことがありました。

ある小学生の女の子が、昆虫に興味を持っていました。ちょっとした草むらなどに虫がいると、すぐに興味を持って近づき、じっと観察します。
それを見て、「先生」と呼ばれる立場の人(学校教員ではありませんが)が、こんなことを言いました。

「○○ちゃんは、女の子なのに、こんなに気持ちの悪い虫が好きなんて、何かの障害があるんじゃないの?」

私はものすごく怖いことだと感じました。

まず、「昆虫が気持ち悪い」というのは、その先生の個人的な感性です。その先生は女性でした。たしかに、女性は男性に比べると、昆虫を気持ち悪がったり嫌ったりする傾向が強いように思われます。その先生が昆虫を「気持ち悪い」と感じることは、ごく自然な反応でしょう。しかし、「昆虫は気持ち悪いものだ」という感性を絶対的なものとして他人に押しつけることに問題があります。

また、「女の子なのに」という部分も引っかかります。昆虫に興味を持つ子どもは、現実に女の子よりも男の子に多いだろうと思います。でも、男の子が興味を持つのはいいけど女の子が興味を持ってはならない、という「こうあるべき」論に飛躍するところに問題があります。

そして、結論として「何かの障害があるんじゃないか」というところ。女の子が昆虫に興味を持ったら障害児という、自分の感性に合わない子どもにレッテルを安易に貼ろうとしています。

最も怖いのは、こういう評価をした人に一定の権力があり、その子どもの将来に影響力をもつことです。

別のケースでは、ある子どもが「親友」と呼ぶ特定の子といつも遊んでいて、ほかの子とあまり遊ばないのを見て、ASDの可能性を疑った人もいます。その人(先生)は、「みんなと平等にひとしく仲良くすべきだ」という価値観に基づいて評価しています。たしかに、まわりの人全員と仲良くできることが理想ですが、その先生本人を含めて「周囲の全員とひとしく仲がいい」人なんて実際にいるでしょうか?
気の合う相手、合わない相手、いろいろいるほうがよっぽど自然でしょう。

さらに別のケースでは、食事をいわゆる「三角食べ」せずに、ひとつのおかずを食べ終わってから次のおかずを食べ始める習慣の子を見て、自閉性障害の可能性と評価した人もいます。ひとつのおかずを食べ始めたらそれに「こだわる」と見て疑ったようです。栄養学的なことはわかりませんが、これなどは単に生活習慣のひとつでしょう。
むしろ公式な食事の場面では、そもそも一品ずつしか出てきません。全種類のおかずが同時に並べられていて、かわりばんこに口に入れるというのは、フォーマルな食事のマナーとしては想定されていない、やろうとしても不可能です。

医学的な知見や医師の診断とかかわりなく、自分自身の感性や価値観、生活習慣と異なる相手を「障害者(児)」として、治療するとか、下手をすると矯正するといった発想で接すること。そして、そうした被害にあうことを恐れ、評価する立場の人間の価値観に合った「型」にはめられる子。

学校の先生と親とでは、感性も価値観も別々ですから、子どもは優等生であろうとすればするほど、その場その場で異なる人格を使い分けなければならなくなります。もちろんそれは大きな負担になるはずです。

これまで知られていなかった障害が世間に知れ渡るようになって、本来の診断目的とはむしろ反対に「個性を否定して型にはめる圧力」として中途半端な知識が利用されていくことに、私は恐れを抱いています。


ちなみに私は幼稚園のころにこんなエピソードがあります。

外遊びの時間が終わって、みんなが部屋の中に入ったとき、先生が確認をしてみたら私がいない。びっくりして探してみたら、独りで外に残ってブランコに乗っていたそうです。
先生が「どうしたの、もう中に入りなさい」と言うと、私はこんな理由を話したそうです。

「僕はどうしてもブランコに乗りたかったのに、ずっと順番を待っていたら、お外で遊ぶ時間が終わってしまった。だから、今乗ってる」

これ、気持ちはわかってもらえると思います。似たような場面に出くわした経験は誰でもあるでしょう。でも、気持ちは気持ちとして、外遊びの時間が終わってしまったからには、先生は「それでも、中に入りなさい」という指導になるでしょうね。実際先生はそういう指導をして、私はしぶしぶブランコをやめたそうです。

私としては、小さい子どもの行動として何気ない一場面だと思うのですが、今の教育・福祉の現場を見ていたら、ブランコに「執着」して「集団行動から外れた」この行動ひとつで、「障害の疑い」と記録される「リスク」を感じます。